歴代のセコムオリジナル長嶋茂雄さんの看板(ビッグボード)と、それにまつわる豆知識のご紹介や、1957年に通算8本塁打で東京六大学リーグ本塁打の新記録を達成してから現在にいたるまでの、長嶋茂雄さんの伝説「NAGASHIMA Living Legend」と、数々の名言を世の中に送りだしてきた長嶋茂雄さんの名言「伝説の長嶋茂雄“語録”」をご紹介します。
第22回
オリンピック好きに加わったあるニュアンス
いよいよロンドンオリンピックです。様々な競技で国際大会は日常的に開催されていますが、オリンピックは特別です。理由は、選び抜かれた選手、チームが4年に一度の勝負で世界のトップを争うスポーツ界最高のショーウィンドウだからでしょう。
私もオリンピックは好きです。ただ、単純だった"好き"に野球の代表監督を託されながら本番5カ月前に倒れて出場できなかった2004年アテネオリンピックの体験でちょっとしたニュアンスが加わったような気がしています。
代表監督で実感した日の丸の重みとプレッシャー
私のオリンピック体験談をさせてください。
まず、日の丸を背負うプレッシャーです。選手、監督と巨人でプレッシャーには慣れっこでしたが、それまで体験した重圧とは全く異質でした。アジア予選決勝リーグの相手は韓国、台湾、中国です。誰もが「勝って当然」と思っていたでしょうが、大差の勝ち試合でもヘトヘトでした。背負った日の丸の重さですね。喉は乾くは、ドキドキするは、これはすごかった。体験したものでないと分かりません。
実は機会あるごとに修正をこころみるゴシップがあります。
この決勝リーグの全体ミーティングでの監督訓示で私が「すべての国が打倒ジャイアンツで向かってくる。油断するな」とやった、と言うのです。
私は「誰かの創作だろう」と主張しますが、コミッショナー事務局(NPB)のスタッフは「あれでピリピリしていた選手が吹っ切れた。顔が引きつっていた選手が下を向いて笑いをこらえていた」と言うのです。リラックスさせるより気合を入れる訓示です。「ジャパン」と「ジャイアンツ」を間違えるはずはありません。が、万一間違ったとしたら、オリンピックのプレッシャーのためでしょう。
まず、日の丸を背負うプレッシャーです。選手、監督と巨人でプレッシャーには慣れっこでしたが、それまで体験した重圧とは全く異質でした。アジア予選決勝リーグの相手は韓国、台湾、中国です。誰もが「勝って当然」と思っていたでしょうが、大差の勝ち試合でもヘトヘトでした。背負った日の丸の重さですね。喉は乾くは、ドキドキするは、これはすごかった。体験したものでないと分かりません。
実は機会あるごとに修正をこころみるゴシップがあります。
この決勝リーグの全体ミーティングでの監督訓示で私が「すべての国が打倒ジャイアンツで向かってくる。油断するな」とやった、と言うのです。
私は「誰かの創作だろう」と主張しますが、コミッショナー事務局(NPB)のスタッフは「あれでピリピリしていた選手が吹っ切れた。顔が引きつっていた選手が下を向いて笑いをこらえていた」と言うのです。リラックスさせるより気合を入れる訓示です。「ジャパン」と「ジャイアンツ」を間違えるはずはありません。が、万一間違ったとしたら、オリンピックのプレッシャーのためでしょう。
万全の準備に、プラス「運」も必要
もうひとつ。すべての競技の選手たちが自国を象徴する色とデザインのユニホームで登場します。ですから、監督権限外を承知でユニホームにも気を配りました。
白地に縦縞、胸に日の丸と赤い字のJAPANが入ったもので、原型はアマ選手だけで日本代表が編成されていた当時のユニホームです。プロ選手だけの代表チーム結成に伴って改良しました。縦縞を少し太くしてその間隔も広げました。観た印象を強くして観客が「カッコいい」と感じ、選手の気持ちを奮い立たせるデザインを意識したのです。
NPBのスタッフは「全部作り直しです。予算は大丈夫か」とあわてました。このユニホームはファンの間でも好評で、海外のスポーツ・グッズ・メーカーからNPBに「販売したいが権料は?」と問い合わせがあったと聞きました。食事の方も気になって日本からシェフを同行させようか、とも考えていました。
他愛のない挿話ですが、こうして万全に整えても、聖火のもとに立つにはさらに「運」が必要でした。「運」に恵まれずに終わったこの体験以後、代表選手への共感の思いはますます強くなりました。単純なオリンピック"好き"に"あるニュアンス"が加わったとは、そういうことなのです。
白地に縦縞、胸に日の丸と赤い字のJAPANが入ったもので、原型はアマ選手だけで日本代表が編成されていた当時のユニホームです。プロ選手だけの代表チーム結成に伴って改良しました。縦縞を少し太くしてその間隔も広げました。観た印象を強くして観客が「カッコいい」と感じ、選手の気持ちを奮い立たせるデザインを意識したのです。
NPBのスタッフは「全部作り直しです。予算は大丈夫か」とあわてました。このユニホームはファンの間でも好評で、海外のスポーツ・グッズ・メーカーからNPBに「販売したいが権料は?」と問い合わせがあったと聞きました。食事の方も気になって日本からシェフを同行させようか、とも考えていました。
他愛のない挿話ですが、こうして万全に整えても、聖火のもとに立つにはさらに「運」が必要でした。「運」に恵まれずに終わったこの体験以後、代表選手への共感の思いはますます強くなりました。単純なオリンピック"好き"に"あるニュアンス"が加わったとは、そういうことなのです。
幻の陸上選手と、気になる野球のカムバック
ところで学生時代にオリンピック代表候補として"スカウト"されかけたことがあります。織田幹雄さんから「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と言われたのです。
織田先生は1928年のアムステルダムオリンピックで日本初の金メダルを三段跳びで獲得したスポーツ界の重鎮です。後に織田先生は社会人野球で投げていた権藤博さん(現中日コーチ)にも声をかけたとか。権藤さんの場合は1964年の東京オリンピックの400メートル・ハードル要員と具体的です。
私たちの世代は、スポーツを職業にするなら野球の時代、「野球命」ですから私同様、権藤さんも陸上転向は考えなかったでしょう。当時はトップレベルの運動能力を持つ者の多くが野球に集まっていた証拠になる話です。
織田先生は1928年のアムステルダムオリンピックで日本初の金メダルを三段跳びで獲得したスポーツ界の重鎮です。後に織田先生は社会人野球で投げていた権藤博さん(現中日コーチ)にも声をかけたとか。権藤さんの場合は1964年の東京オリンピックの400メートル・ハードル要員と具体的です。
私たちの世代は、スポーツを職業にするなら野球の時代、「野球命」ですから私同様、権藤さんも陸上転向は考えなかったでしょう。当時はトップレベルの運動能力を持つ者の多くが野球に集まっていた証拠になる話です。
さて、ロンドンオリンピック。時差で昼と夜が逆ですから実況テレビ観戦とはいかず、ダイジェスト版で楽しむことになるでしょう。期待は「なでしこジャパン」。
しかし、野球が5大会で退場し、日本は金メダルなしで終わったのは残念でなりません。我がデザイン(とは言い過ぎですが)のあのユニホームはもう五輪の舞台に戻ってくることはないのでしょうか・・・。
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